「では、麻倉の者よ。 頼んだぞ」
「……はい。 謹んでお受け致します所存」
「うむ。 これの事は、天の御意志であり、また、民草等の望む事でもある。
 ――それ故、心して構えよ」
「……はっ」





『紡がれる想い』 〜第壱話:宣託〜





その日の朝は、いつもと違っていた。
いつもは誰も、葉王以外は嫌がって訪れようとしないアヤメの部屋には、珍しく人が溢れ、甲斐甲斐しく彼女の身支度を整えている女房等の姿が目立った。
そして、几帳を隔て、一人上座に座した老人がアヤメに向い、横柄で、何処か蔑みが含まれた口調で以って彼女にある説明をしていた。
「――では、良いな。 これは麻倉にとって重大事ゆえ、心して構えるのじゃぞ。 だが、己の分は弁えよ。 お前の持つその力≠ヘ忌まわしきもの。 それと同じく、お前のその姿もまた、疎まれるもの故、それ以上に目立つ様な、出過ぎた真似はするでないぞ。
 ――後々、我が麻倉の家に、傷を付ける様な事はせぬよう、ゆめゆめ、忘れぬ事じゃ」
「……はい。 全ては麻倉の為」
「うむ」
涼やかな衣擦れと共に、几帳の内からアヤメが姿を現し、老人の前へと向き直る。
その見事な装いに、思わずその場に居る誰もが溜息を吐いた。
厳しい顔付きを崩さないその老人も例外無く、一瞬眉間に寄せていた皺が伸びもしたが、だがそれもほんの僅かな間だけで、
「しかと、承知仕りました」
そう、アヤメが額ずいたのを確認するや否や、この様な場所に長居は無用とばかりに、さっさと部屋を出て行ってしまった。
そして、それが合図だったかのようにして、先程までは甲斐甲斐しくアヤメの世話をしていた女房達も、我先にと言った態で彼女の部屋から出て行き、後には、煌びやかな五衣(いつつぎぬ)を身に纏ったアヤメのみが残された。


「へ〜え。 やっぱり、アヤメは何を着ても似合うね♪」
「葉王……。 何しに来たのよ?」
「何って、君の正装姿を拝みに来たに決まってるじゃないか」
「ふんっ。 本当に、こんな衣装、似合ってると思ってるの?」
寂しげに、自嘲めいた口調でそう呟くアヤメの髪を葉王は一房掴むと、
「何を言ってるんだい? その、君の名と同じ音を持つ菖蒲襲ね(しょうぶがさね)、アヤメの髪の色に、とても合ってるじゃないか。 それに僕は、アヤメの髪って、日輪みたいに思えて、好きだけどな」
そっとそれに、軽く口付けた。
「ふんっ。 この髪を日輪だなんて、よく言うわね。 こんな色素の薄い髪、綺麗な訳ないじゃない。 それに……この、名だって……。 同じと言われる花が可哀想よ……」
「アヤメ……」
「それよりも、葉王。 あなたがここに居るって言う事は、葉王も事情を知ってるの?」
「ああ。 僕も、早朝から長老方に叩き起こされたからね」
「そう……。 それは、災難だったわね」
「まったくだよ。 でも、わざわざアヤメを指名して来ただなんて、……一体、誰が裏で手を引いているのやら」
「まぁ、いいんじゃないの? 別に、これと言って、大した事をする訳でなし」
「そう、なんだけど、ね……。 ちょっとばかし、気になって、さ」



――この事は、葉王には内緒ぞ。
決して、この祀りの真意を悟られてはならぬ……




何かが引っ掛かるのか、すっきりとしない顔の葉王を見ながら、アヤメは先程の会話を反芻していた。
「……ふふふ。 一体、何が気になるって言うのよ? あたしが任されたのは、大祓えに因んだ、邪気祓えの姫巫女。 ――それとも、このあたしの実力を、葉王は疑うとでも?」
「い、いや! 君の実力は、十分過ぎる位に知ってるよ!」
ぐいっとアヤメが凄めば、その迫力に葉王はたじたじとなって、身を後ろへと退く。
「分かれば、宜しい」
そんな葉王を、アヤメは満足そうに眺めやった後、
「じゃぁ、あたしは行くわよ」
「ああ。 ……気を付けて……」



――気付かれれば、恐らくこの祀りは中止。そのような事にでもなれば……。
――分かっておるな?



「ええ。 また、後で……」
ぽつりと呟くアヤメの後姿を見送りながら、葉王は何とも言えない焦燥感に苛まれていた。









昨夜遅く、麻倉に朝廷からの早馬が訪れ、特命を帯びた書状が渡された。
その内容とは。
来る日に執り行われる大祓えの前祀りとして、邪気祓えの姫巫女を演じてもらいたいとの旨。
毎年夏を迎える前――半年間の邪気を祓う為――に行われる、大祓え。
通称、『夏越(名.越)の祓え』。
この儀式を執り行う前に、何時の頃からか、ちょっとした前夜祭的イベントとして、帝近侍の陰陽師や密教僧から選ばれた姫巫女が、『疫神』を和
(なご)す為に一夜だけ、蘇民将来(そみんしょうらい)の娘となり歓待役を担う事が恒例となっていた。


蘇民将来とは、嘗て南海に住まう神の娘を妻に迎えようとして出掛けた武塔天神(牛頭天王)を、貧しいながらも歓待し、そのおかげで疫病から逃れる術を授かった人物であり、その方法とは、腰の上に茅の輪を付ける事であった。
それ以来、皆、この蘇民将来にあやかって、六月の晦日には神社で茅の輪を潜ったり、小さく編まれた茅の輪を身に付けたりし出したのが、この夏越の祓えの由縁であった。
また、蘇民将来には巨旦将来
(こたんしょうらい)と言う兄弟がおり、巨旦は裕福であったが、一夜の宿を渋ったが為に、武塔天神から一族を皆殺された上に、彼の屍はバラバラに切断されて五節に配当され、調伏の威儀が行われた。
これが、今も行われている五節の裏の由来譚であり、それぞれの節句で供されている物は実は巨旦の臓物であり、血肉の代わりであった。


そして、その役に選ばれると言う事は、巫女としては大変名誉な事であり、別にこれと言って、深い意味合いなどは無かった。
――そう、これまでは。
だが、今回は少しばかりそれに含まれる意味合いが異なり、真意は他に有った。

確かに、姫巫女として選ばれる事は名誉な事である。
それが、普通の神社≠ネどに仕える巫女等にとっては。
しかし、麻倉は陰陽頭
(おんみょうのかみ)をも歴任する程の実力を有した、陰陽道の大家とも言える家柄。
その様な麻倉にとって、姫巫女と言う役柄は今更ながらなものであり、それよりも重大な神事や儀式を、何度も取り仕切る立場に立つ事も多々あった。
だからこそ、葉王は気に留め、何かがあると考えた。



――その真意とは、一体何か?



だがそれは、葉王には決して悟られてはならない事柄であったが為、真実を知る者は皆心に蓋をし、或いは術で防ぎ、彼の能力である、霊視≠避けた。
勿論、同じ能力を有する、アヤメも然り。
彼等は必死だった。
ただ、葉王に悟られぬ様、秘密が漏れぬ様、それだけに力を費やし、祀りが無事に滞り無く執り行われる事だけを考えていた。



――良いな。これは、麻倉にとって、ひいては、この日の本の国にとっての重大事故、心して掛かるのじゃぞ。
決して、中断など許される事では無い。もし、その様な事に等なれば……










静々と、アヤメは案内役の女房に連れられ、一人内裏の中を歩く。
その頭には、薄衣を被りながら。
ここへと至る途中、何度も好奇の眼に曝されたが、今では既に人払いがなされたのか、しんと静まり返り、女房とアヤメがたてる衣擦れの音が静かに響き渡るのみ。
「待っておったぞ。 麻倉の者よ」
そして今、アヤメは、彼女の身分などでは、決して入る事の許されない部屋に通され、それと同じく、会う事など到底適わぬであろう人物と対峙していた。
彼女は清涼殿の簀子に座し、今回の依頼主である帝と、直接対面していたのであった。
「……此度の御推薦、真に有り難き幸せ」
「うむ」
「まだまだ修行中の身なれど、一度引き受けたからにはこの麻倉の名に掛けて、見事大役を果たせて見せますれば、主上はどうぞ、御懸念の無き様御願いしたく、存じ上げまする」
「うむ。 そなたの決意、しかと心得た。 して、そろそろ顔を上げぬか。 噂に聞くそなたの美貌とやらを、私にも見せてはくれぬか?」
「……恐れながら、主上。 私めの顔等を御拝見なされば、それこそ御目汚しになります故、御止めなさる事を謹んで御願い申し上げます」
「謙遜する事は無い。 あの、何れは天才陰陽師として名を馳せるであろう、陰陽助殿が自慢する程の許嫁殿を、一度はこの目で見てみたいと思っていた所よ」
「ですが……。 私めは人とは異なる姿をしています故……」
「その様なものは、目にして見ぬ事には判じられぬものであろう?」
アヤメの言葉を途中で遮り、猶も強く帝は強要した。
その言葉に逆らえる事など出来ず、アヤメはそっと被っていた薄衣を取り去ると、ゆっくりと面を上げた。


「ほぉ……。 これは、これは……」
淡い光が射す中で、色素の薄い髪と瞳は、その光を受けて、金色の色を帯び、その様はさながら、天上から舞い降りた、天女の如く。
「そなたの様な者を、私は昔、巻物の中で見た事があるぞ。 あれは……西方の神の話であったであろうか……。 陽の下で見るそなたの姿は、まるで、天上界に住まうとされる者等の……天女の如き様であるな」
「な、何を……! 勿体無き御言葉、この身に余る光栄で御座います」
「いやいや。 周りの者が煩いであろうが、私は別段、何も思わぬ。 寧ろ、そなたの様な者を妻に娶る事の出来る陰陽助が、私は羨ましく思うぞ」
そう言うと、帝は朗らかに笑って見せたのであった。
その反応に、そして、心からそう思っている帝の真意に触れて、アヤメは心底戸惑ってしまい、ガラにも無く視線を辺りに漂わせ、落ち着かない素振りを見せた。



――一体、何なの!?この帝と言う人は!?あたしの事を天女だ何て言って、恐がらないなんて……。 今までずっと、そんな人は、葉王だけだと思っていたのに……。



軽い混乱を起こしているアヤメを、不思議そうに見遣りながら、
「だが……」
何かを言い掛け、帝はそこで言葉を言い渋った。
「……はい。 皆まで仰らずとも、存じ上げております故」
再び、深々とアヤメが額ずいた時、
「――主上。 そろそろ御時間の程」
後方に控えていた者が、そう、声を掛けた。
「……うむ。 では、麻倉の……そう言えば、そなたの名は何と言ったか?」
「――アヤメ、で御座います」
「では、アヤメ。 ――辛いだろうが……宜しく頼む」
「――はい。 では、是にて失礼致します」
しゅるっと、軽く裾を裁く音を響かせながらアヤメは立ち上がると、深く一礼をし、再び薄衣を頭に被り直すと、一人静かにその場を退出した。



「……主上。 あの者は……」
「ああ。 ……実に、澄んだ目を持った者ではないか……。 本当に、あの星読みは、履がえせぬものであるのか?」
「――恐れながら。 全てはこの国の未来の為……」
「――そうか。 私は彼の者に、恨まれるやもしれぬの」
そう言うと、帝は扇を口元に当て、暮れ行く空をじっと、見遣った。