ねぇ?君は何を想って、彼の地へと旅立ったんだろう?
少しは、僕の事も考えてくれたのかな?
少しは……僕の事を、想ってくれましたか?

一人。――たった、独りで、彼の地へと旅立った君。
そこは、どんな場所ですか?
君にとって、暖かな場所ですか?
そこは、冷たくはないですか?
君にとって、優しい場所ですか?
君と過ごしたあの日々が、今では泡沫の夢のようで。
あの、至福の時を想い出しては、僕は狂いそうになる。



――否。



もう、既に僕は狂っているのだろうか?
君を失ってしまった、あの日――。
僕の時は、あの日から止まってしまったようだよ。



――そして、心も。



もう、何も考えられない。
只――。
常に脳裏に浮ぶ事は、この、狂ってしまった心を占める想いは、只一つだけ。
僕から君を取り上げた、この世界と、そして。
救いようの無い程に下賎で卑小な愚民共への、正当なる裁きを。
復讐等と言うものでは済まされない。
心の底から、否。魂の底から思い知らせてやらないと、どうしようにも僕の気がおさまらない。
君が受けた痛み、辱めを――心に負わされたキズを。
僕は決して忘れはしないから――。



――だから、待っていて。僕は絶対に、君を………。





『紡がれる想い』 〜プロローグ〜





「ほら、アヤメ、起きて! 外を見てごらんよ。 今日も良い天気だね〜」
「……朝っぱらから、一体何なのよ!? それに、何で、あんたがここに居るの?」
「嫌だな〜。 未来の夫に対して、その態度は無いだろう?」
「……誰が、いつ! あんたの嫁になるって言ったのよ!?」
「しょうが無いだろう〜。 麻倉が決めた事なんだし。 でも僕は、その事に関してだけは、感謝してるんだけどな」
「何、よ……」
「だって、鬱陶しいだけでしか無い麻倉も、偶には良い事をするなってね♪」
そうでも無かったら、今頃君とは知り合えて無かっただろう?と、実に楽しげに笑う彼に対し、
「……ふんっ」
アヤメと呼ばれた少女は、どこか照れたような顔をしてそっぽを向いた。
「さ、そんな事よりも、朝餉の用意はもう出来てる。 冷めてしまわ無い内に、広間に行こう。 だから、アヤメも早く着替えて」
そんな態度を示す彼女を、彼は愛しそうに眼を細めて見やりながら促した。
誰もが振り向かずにはいられない程の美貌を有しているのに、この時代では疎まれる、色素の薄い髪に、それと同じ、鋭利に凍えた瞳を持った少女。
それとは対照的に、思わず溜息が出る程に見事な黒髪に、湖の深遠を覗くが如く、昏く澄んだ瞳を持った青年。
少女はその青年の色に焦がれ、青年はそんな少女を、日輪の如く綺麗だと、そう思っていた。
彼女がその色を戴いて、ふわりと笑む様は、正に日輪の如く――。
彼は決して、彼女の髪や瞳は、嫌いではなかった。


「……ちょっと、いつまでそこに居るつもり?」
「ん?何だい?」
「『何だい』じゃ無いわよ! 着替えるから、早く外に出なさいよ!」
「そんな事、別に僕は気にしないけど? 寧ろ、着替えを手伝おうか?僕のお姫様♪」
そう言うと、既に手に持っていた代えの着物と共に、アヤメへと彼は近付く。
だが――。
「いつまでも調子に乗ってるんじゃないわよ! 葉王!!」
と言う台詞と共に、バチンっ!と、実に景気の良い音が部屋に響き渡り、
「っつ〜……。 痛いじゃないか、アヤメ」
葉王と呼ばれた青年は、真っ赤に腫れた右頬を押さえながらその場に蹲ったのであった。
「ふん! 自業自得でしょ!」


それは、彼らにとって、いつもの日常で。
照れ屋な彼女を毎度同じようにからかっては、頬に張り手を喰らって痛い思いをする彼。
でも、そんな風に照れる彼女の顔や態度がとても愛しくて、毎回懲りずに彼は同じような事を繰り返す。そして、その都度、彼女に学習能力が無いと呆れらるのであった。
だけど、彼は知っていた。
そう言う彼女だけれど、そっぽを向いている裏側で、本当は照れた笑みを浮かべている事を。
それは、不器用な彼女の必死の照れ隠し。
そして、滅多に人前では笑わない彼女が唯一一人だけ、笑顔を見せてくれる人物と言うのが、己であると言う事も、彼はちゃんと、知っていたのであった。



その時、彼は確かに、心からの幸せを感じていた。
この時が――アヤメと二人、この先もずっと、共に暮らして行けると、そう信じて疑わず、ただ彼女の笑顔と幸せを守る事だけを、彼は考えていたのであった……。









麻倉 葉王。
それが、麻倉家の次代を担い、ひいては、全ての陰陽師の統括者となるべく希望を一身に注がれた、青年の名であった。
そして、アヤメ。
それが、己が望む望ま無いに関わらず、麻倉家に拠って勝手に葉王の許嫁として決められ、ただその為だけに、この家に住まわされている少女の名であった。


麻倉家は力を求める。
より強い、次代を担うべく期待を寄せられた、その当主に見合うだけの力を秘めた者を。
嫁探しは、一族の総力を挙げて行われ、幾人かの候補者が選出された後、数回に渡って篩いに掛けられる。そして、最終的に麻倉の家によって、彼らが定めた基準に達していると思われる者だけが、嫁として認められるのであった。
そのお眼鏡に適ったのが、アヤメであり、彼女は見事葉王の嫁としての座を勝ち取ったのである。
だが、それは、彼女が自ら望んでの事では無く、勝手に麻倉の家によってこの屋敷へと連れて来られ、本人の同意や、ましてや彼女自身の意思などは全く無視され、ただ、葉王の嫁になれと、その事だけを義務付けられたのであった。




だけど、それも仕方の無い事。 あたしに選択肢など、初めから無いのだから。
誰からも疎まれ、行き場の無い人間。 あたしの居場所など、何処にも在りはしない。
誰も、あたしと言う存在を、望みはしないのだから。そう、誰も……。
――何故なら、あたしは、生きる事を否定された人間なのだから……。




その能力故に忌み嫌われ、何処にも行き場を無くしていた彼女を見出し、引き取ったのが麻倉であった。
だがそこでも、彼女は畏怖され、離れへと隔離されていた。
彼女は、自身の能力を厭いながらも、如何する事も出来ずに、孤独な日々を只一人、送っているだけであった。
どこか遠くへ、安穏と安らぎを覚える事の出来る何処かへ行きたい、と強く願っては、閉塞された毎日を、或いは、この自分を取り巻く世界そのものを呪って……。
しかし、そんな彼女に安らぎを与えてくれたのが葉王であり、また、それは彼にとっても、同じ事であった。
似た様な能力を持つ二人だからこそ、互いの事が解り合え、打ち解ける事が出来たのであった。




僕は、アヤメに出会えた事を、感謝しているよ?
いつもは煩わしいだけでしかない麻倉も、偶には善行をするじゃないかってね。
君と出会えて、僕を取り巻く景色は変わった。
今までは、ただ愚かしいとしか思えなかった周りの者達が、少しは好きになれたかもしれない。でもそれも、ほんの少しだけどさ。
だって、君以上の存在なんて、そうそう居はしないから……。










二人だからこそ、一人ではなく、互いに支えあう事が出来るからこそ、乗り越えて行けるものがある。
そう、彼らは信じて止まなかった。



――あの時までは……。



この先に待ち受けている、非情なまでに残酷な結末の事など、夢にも思わずに――。
まだ、この時≠フ彼と、彼女は、幸せであった……。