「……アヤ、メ……?」
僕は、今正に、目の前で起こった事態にただただ、呆然とした。
顔に何か熱いもの≠ェ掛かった。
……これは、何≠セろう?
ぬるっとしていて、生温かい……。
ゆるゆるとした動作で、顔に掛かった飛沫≠拭って見れば、それは赤い、――見事に色鮮やかな、深紅≠していて……。
「アヤ、メ……?」
僕はもう一度、その名を呼ぶと、僕の前に力無く横たわっているアヤメに、そっと近付いた。





『紡がれる想い』 〜第四話:神事<かみごと> 3〜





「おぉ、これは葉王様。 ……して、如何様にして、このような場所へと?」
「……アヤメ……」
茫然自失と言った様子で、葉王はただ、その名を呟く。
だが、その様にも一向に構う事など無く、
「さぁさ、ここからはお早くお立ち退き下され。 もう、間も無く、牛頭天王……。
 ――いえ、素戔鳴尊が来ます故、ここは危のう御座います」
「……素戔鳴尊=Aだと……?」
「はい。 左様で。 つい先程、封印が解けてしまい、あやつめが姿を顕現させてしまいましてな」
いたって、何事も無いような風に話す長老。
その表情は相変わらず変化も無く、そして、冷やかな視線で以って、アヤメの力無き身体を抱き起こした葉王の姿を見ていた。
「……まさか、長老。 お前は……全て≠知っていたとでも、言うのか……?」
ぎゅっと、その細い身体を抱き締めながら、葉王が昏い声で、唸るようにしてそう言うと、
「……全て≠ニ申しますのは……。 ……はて?
 ――贄≠フ事、ですかな?」
薄い笑みを、その口端に上らすと、長老は蔑んだ視線でアヤメを見た。


「……うっ……」
するとその時、微かな呻き声をアヤメが発した。
「アヤメ……!!」
葉王が慌てて、その鼓動を確かめると、微かながらも、確かに脈打つ心の臓の音が聴こえる。
「良かった。 まだ……」
それに思わず葉王は安堵の溜息を漏らした。
だが、
「ふんっ。 しぶとい小娘よ。 まだ生きておったか」
逆に長老は、侮蔑に満ちた声音でそう言うと、
「さ。 葉王様、お早くその小娘を、こちらへとお渡し下され。 でなくば、もうそこまで、スサノオの気配が……」
無理矢理葉王の腕の中から、アヤメを奪おうとした。









「! ――離せっ!!」
「っ!! ぐぅっ! 葉王様っ!?」
その伸ばされた腕を、力≠込めて振り払うと、葉王はきっと、後方を見据えた。
「お前等などに、僕の大切なアヤメを、渡しなどはしない!!」
そして、そう言うと、徐々に近付いて来る、禍々しい気配に怯む事無く、葉王は五芒の陣を敷いた。
「――右に伊邪那岐。 左に伊邪那美。 前に天照。 後ろに月読。 今陣を敷き、彼のものを縛せ!!」
「!! 葉王様、その呪い
(まじない)は!?」
慌てる長老を、今度は逆に、冷やかな瞳で見下すと、
「相手は、彼の御方。 素戔鳴尊、なんだろ?
 ――ならば、盛大な持て成しをご用意して置かないと、失礼に値するだろう?」
ニヤリと不敵に笑んで見せた。



今、葉王が施した符陣は、古より伝わりし、『神霊呪縛陣』と言うもので、彼の神に連なる神々の名を、その陣に秘める。
更には五芒星によって、五行の力がそれに相乗され、天地の力がその符陣内に集まる。



天の力は、神々の名が秘められた、方形陣へと。
地の力は、五行を模した、五芒星へと。



それらが正位置へと配当され、最後に術者である葉王がその中央へと鎮座し、そして呪いが完成した時、初めて神の御霊
(みたま)をも縛す事が可能な符陣は姿を現すのであった。
「で。 最後の仕上げとして、この中央に、僕が入れば、この符陣は完成するっと」
何でも無い事のように、サラリと葉王はそう言うと、躊躇いも無く、陣の中へと入って行こうとする。
だが、その、自殺行為とも言える行動に、慌てて長老が止めに入った。
「葉王様っ!? 解っておられるのですかっ!? その符縛陣は、余りにも高度な呪い故に、そして、余りにも、人の身には過ぎた御名の方々であるが故に、未だ嘗て成し得た者がおらぬと言う事実を!!」
「……ああ、それくらい知っているさ。
 ――それに、その呪いで縛す相手もまた、人の身には過ぎた相手だと言う事もな」
「ならば! 解っておりますのならば、早くそこをお退きなされ!!」
彼には珍しく血相を変えて、葉王にそう詰め寄ろうとした時、大地が一際大きく鳴動し、それと共に、
「……どうやらやっと、お出ましになったようだな……」
「我が花嫁……櫛名田よ……」
古の、まつろわぬ神がその姿を葉王の前へと、姿を現した。


「……なるほど。 櫛名田=Aねぇ? ……そう言う事か……」
その姿に怯む事無く、葉王は眼前を見据えると、
「お生憎と、この姫君の名は、そんなご大層な名前なんかではなく、アヤメ≠ニ言うんだ。
 ――それに、誰≠ェ、誰≠フ花嫁≠セって?
 冗談じゃない。 アヤメは、唯一無二にして一生涯の、僕の♂ヤ嫁なんだからね」
視線をアヤメに据えたまま、外そうとしないスサノオノから庇う様にして、アヤメを己の後ろへとそっと横たえた。
そして、
「言っておくが、長老。 アヤメに余計な手出しでもしようものなら、僕の式神がお前の事を八つ裂きにするからね」
傍らで歯軋りをしている者への牽制も忘れず、葉王はゆっくりと立ち上がると、スサノオノへと改めて向き合った。